2015年7月20日月曜日

卒論日記 文献整頓なやみの巻

読んだ文献を整頓していたら
全然読んでいなくてがっくしきた

それにしても既に言えるのは


①やっぱりですけどね。どう考えても東口に集注しているだよね

それはやはり淀橋浄水場があったこと、
その跡地は新都心としてどかどかオフィスビルがたったから
細かい建築がつけいる暇もなかったことなのだろーけど(→③につながる)
→人々が「思い出」として印象に残すのは東口での日々


②もう一つは、今のところ

平井玄『愛と憎しみの新宿』ちくま新書、2010年
渡辺克己『新宿、インド、新宿』ポット出版、2011年
椎名誠『新宿熱風どかどか団』新潮社、2005年

あれからこんだけしか読んでないのだが
3冊に出てくる場所残さず拾うと上の地図のようになったわけ
大体30弱ですね
で、いずれも70年代から大体90年代くらいの頃の話なのだけど
その時から残っている店が全部で5軒です
→5/30=1/6が変化

③それからもう一つ
地図に「大きいもの」というレイヤーを作ったんだけど(茶色)
これはビックロの前は三越(アルコット)だったとか、
大塚家具の前も三越(南館)だったとかそういう大きな単位での
移り変わりのものです
→大きい単位は大きい単位で変遷してく

とかとかなんかそんな感じのことが言えるのかいね?

で、今書きながら思ったのは
・各本ごとに
店・年代・現存○×・現在・所用ビル形態
・本読み終わるごとに
年代・現存率・印象分析(記述の部分)

みたいなリストが作れるかもな?と思った

てゆ〜かわしは何がいいたいの?
?都市の認識の仕方?
?からの都市の選ばれ方?
?都市の複雑性?

そもそも都市を調べる上で「記述された」「語られた」
ものを使いたい、なぜならそっちのほうがえもいから
っていう事にしたんだけど
えもい記述を使うと何がわかるの?
とかその辺クリアにしたほうがよくない?

ちなみに現存してるやつはいくつか行ってみた
石の家、蠍座、池林坊、あれ、れ、これだけ?
てか今気づいたけどどかどか日記の場所プロットしてないわ。

みたいなそんな感じの今日。


2015年7月17日金曜日

卒論日記 地図作製

どんなもんか見ようと思ってマッピングを実施開始したのだが
なんか見えてきそうじゃな〜い?
現役の店は少ないぬ〜

<その他お役立ちメモ>

凮月堂についての記述と、「小説家の新宿」と題されるなにやら
http://www.tokyo-kurenaidan.com/takeshi-shinjyuku1.htm

ジャックの豆の木の場所の参考、タモリについての記述
そしたらなんと、あんなに分からなかったアカシヤの場所もかいてあった!!
このページかなり使える〜
https://cakes.mu/posts/6373

アカシヤの場所を知るためにびざーるの場所を知るために見つけたブログ
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-01-26

ジャズ喫茶系の店を追って検索をかけているとほぼ100%
「学生運動が盛んだった当時〜」
「70年代ぼくらがいつも書け紺だ〜」
みたいな記述が出てくる。

http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13000920/dtlrvwlst/7843873/
食べログとかの口コミコメントにも結構詳しく思いでを書いている人が
いたりする。こういうの使いたいかも。

<今日の収穫>
マッピングすると見えきそうっぽさある
→次は数字で〜
食べログっていいかも

2015年7月16日木曜日

卒論日記 『新宿、インド、新宿』3

<秋山祐徳太子によるコメントから>


彼と知り合ったのは新宿に間違いない。たしか1970年代の始めであったと思うのだが、そのころの新宿はあらゆる風俗が入り乱れて怪しげでブッソうな街であった。(p.154)

やはり出会った場所はゴールデン街だったらしい。

<大坪正己によるコメントから>


新宿の高層ビル群がまだできていない頃、その高架下にもぐり込んで、仲間と焼き肉パーティをした。(中略)またある時は、新宿駅東口前の芝生の上でフーテンと酔っぱらって飲み明かした。(p.157)

<永寿日郎によるコメントから>


笑顔といえば、ある午後、新宿の珍しく西口の方でバッタリ会い喫茶店に入った。(p.164)

ここに出てくる「週刊文春」の連載「そして犯人は消えたー事項事件の現場を行く」の話が面白いし、面白そう。

写真屋に注文した人は、バーテン、ホステス、ヌードスタジオの女、ヤクザなどの人たちで新宿を新宿たらしめている主要な一群であった。(p.166)

(ちなみにわてくしとしては確かにそういう人は新宿っぽいイメージではあるがやっぱり実際にそういう世界にいたことが無いので実感は湧かないのである。)

(前略)ナベさんが撮り始めた新宿の地は、今や日本一の高層ビル街である西口に一本の高層ビルも無く(京王プラザ、47F感性1971年)、マクドナルドも無かった(同じく1971年に日本1号店、2号店が代々木)。この二つが象徴的であるが、新宿史を考えれば最も激しい変貌が始まろうとしている前夜であった。(p.166)

他、ゴールデン街の「唯尼庵」が登場。(p.166)

<山本泰彦によるコメントから>


小田急ハルク脇の喫茶店「ピース」(p.167)
↑これまだあるよね?なんか見たことある。
http://www.odakyu-halc.jp/cm/shop/shop015
あったあった。

渡辺のアパートは、今で言うと、東京医大病院の青梅街道の反対側、路地を入ったところにあった。(p.167)

寺山修司によるコメント(「新宿ー孤独の街 いいひとは、みんなどこかへ行ってしまった」)から


新宿には、ふしあわせがよく似合う。どんなに高層ビルを建てたところで、街の本性が変るという訳ではないのである(p.178)

喫茶店「イレブン」(p.178)

喫茶店「イレブン」に入って、壁に耳を押しつけると、隣の「ピット・イン」のジャズの生演奏がきこえる。(p.178)

何か情報はないかと探したらピカデリーの近くのジャズバー「DUG」の食べログにこんな口コミが。
この感じだと、今はないっぽいね。DUGは先日たまたま行ったけど、だいたいあんな雰囲気だったんだろうなあどこも。生き残る所と、生き残らないところがあるのは何故?

喫茶店「白馬車」(p.178)

「しかし、モーニング・サービスは何といっても「白馬車」が一ばんだね。(中略)二十四時間営業だから、帰る家のない連中はみんな、あそこで夜を過す。テイのいいフーテン・ホテルといったところだが、あんな気分のいい店は、めったにないと思うよ。」(p.178)
※寺山修司が文章の中で渡辺克己の文章を引用したもの
バターが付け放題なんだって。ウフ。

白馬車調べてみた↓
白馬車のマッチ箱が1500円で取引されている、その確かにあった感にわしゃ一々ちょいエモになる。
喫茶店マッチ箱がレアになるというわけだ〜
なんか言ってます。

ゲイバー「オベロン」(p.181)
ゲイバー「オベロン」のトニコさんが〜というところがあるが、トニコさんって今さっきリンクを貼ったブログに写真があったぞ。。。

なんかあったぞ...ぽすぎる。。
インターネットさいこう

新宿はまた、賭博師たちの街でもある。だれもが賭けるチャンスをさがして、ぶらぶらしている。/丸の内や銀座の人たちは資本主義の検討に熱中してばかりいるので、富の生産、流通、消費にもう一つのシステムがあることなど用意に理解できないのだ。だが、新宿は例外的な街である。ここでは人たちが一足先に資本主義の検討などに見切りをつけてしまっているので、自分たちのシステムを造りださない限り、だれもが富にありつくことなど出来ないのだ。(p.181)

南口にある場外馬券売り場(p.182)
ここでどれくらいのショバ代をとられているかを見ると、「新宿っ子たちが、どれほどシンケンに『富の浪費』を考えているか」というのがわかるらしい。

歌舞伎町のジョイパック・ビルの裏のラーメン屋「フクジン」(p.182)
名物が天下一ラーメン、ラーメンの前に福神漬けが出るのが人気。常連はゲイボーイやキャバレーのマスターなど。寺山修司も常連か。
調べたけど無いっぽいです。

新宿には、アル中の犬がいる。私服がきたことを教えてくれる「日」という商売もある。一流レストランのゴミ箱から、食べのこしのエビフライやカツをもってきて、汚れを削って復元して配達してまわる「弁当屋」(p.182)
まじで〜〜〜

コマ劇場の前に店を出す靴みがきの「貴族」は、気にくわないクツは磨かない。(p.183)
なんだなんだ。教えてくれないのか

(前略)新宿が一ばん美しいのは夜明けの直前だ。鳩が都電道路を歩きまわっている。夜の新宿人たちが酔いつぶれ、姿を消しー昼の新宿人たちが、姿をあらわす前の一刻。(p.183-4)

二十四時間営業の「白馬車」を満員でしめ出されたフーテンが、紙袋二つに家財道具一式つめこみ、銀行の石段に腰かけて日の出を待ちながら、数をかぞえている。(p.184)
今は白馬車は、マックかなあ〜

客をホテルへ置いてけぼりにした娼婦が歩いてくる。(p.184)

仁王立ちに突っ立って泣いているフーテンがいる。(p.184)

早くもドアをあけて、店内の止まり木を全部路上に出して水洗いしているバーテンは、これから帰ってゆっくり眠るのである。(p.184)

だが、こうした無類の町新宿もだんだん変ってきたようだ。/警察の数ばかりふえてゆき酔っぱらっても件かもできない、とこぼしているサラリーマンもいた。今では夕方、ドッと駅から吐き出されてくるネクタイをしめた「植民主義者」たちが、飲んで食って歌って、ドッと引き揚げてゆく施設かされたレジャー区域になってしまったのだ。つらいとき、一目にかくれて泣きに行ったボーイたちのための暗闇も、いまは灯りがついているし、ビルとビルのあいだで、野良猫に見られながら立ったまま愛しあった店員たちの逢いびきの暗闇もなくなってしまった。(p.184)
ああなんて素敵な文章

おでん屋が道路交通法違反で追い払われ、「ビル内流しおことわり」の貼紙がはられ、新宿っ子たちにとっては、まったく住みにくい町になった。「サブナードへ入ったら、まるで銀座にでも来たのかと思っちゃったよ」と渡辺さんは言う。(p.184)
言ってたね。自身のインタビューのとこでもいってましたよこれ。

寺山修司(素敵すぎて)たくさん書いてるのでたくさん引用しちゃった。

2015年7月15日水曜日

関係ないこと

見つけてないか。

アボカドの種のとこにご飯いれて醤油かけて食べるやつ
西洋の人がやるとすればこうなるのね

ローラインザキッチンのローラ、今日の動画はちょっと微妙ですね。
あんた矛盾してるわよ。くりぬいたアボカドどーすんのよ。





2015年7月14日火曜日

卒論日記 ボンジの言葉

きゃ〜みなさん見つけちゃいました!?
ホホホ

今日、ボンジは言った。

君は早くフィルターを見つけなきゃねえ〜


卒論日記 『新宿、インド、新宿』2

渡辺克己は新宿で、流しの写真屋をやっていた。1973-4年くらいのこと。

二丁目(新宿)に遊郭があった頃から、暗箱でマグネシューム焚いて撮っていた連中がいたわけですよね。僕がその写真屋さんの代写なんかで行くと、「僕も実は遊郭で写していたんだ」なんてね、今は写真館の旦那になっていたりして、しゃべるとまずいなんていうのがいたんですけれどね。(p.60)

遊郭専門の写真屋が結構いたというが、これは一体どういう者のこと?
何をうつすの?
http://lwp-magazine.com/2014/02/06/hirooka-keiichi/
こういうことでしょうか。でもたくさんいたんですよねえ。

夜の商売の人は長時間働くのです。家に帰って、寝てまたすぐ、というわけで、着る物なんかでも買いに行く時間がないから、洋服にしても行商屋さんが来るんですよ。(p.63)

今でもゴールデン街に行くと僕の撮ったパネル写真が飾ってありますよ。(p.63)

それにサブナードなんかができて、街の様子がグルッと変わっちゃったんですね。大量に人が来るようになった道路なんかもきれいになっちゃって、昔は汚い格好して道路に座っていたりして、酒飲んだりなんて結構やっていたんだけれど、全部なくなった。ますます、写真屋というのはダメになっちゃった。/新宿のそういうのは終わりだみたいな、記念碑のような感じで「新宿群盗伝」を出したんですね(73)。(p.63)

サブナードがきっかけですか〜。初めて見る記述。
『新宿群盗伝 1965-1973』渡辺克己(Akio Nagasawa Publishing, 2013年)
http://imaonline.jp/library/photobooks/524a33101e2ffa3563000001/

その後焼き芋屋さんになったのち、写真館を。
お金がたまってインドへいきます。

(中略)インドから帰ってきたら、もう一階ちゃんと新宿を見て置きたいなということがあって、いい加減にしてきたわけじゃないんだけれど、もう少し深く撮りたいなというのが出てきたですね。(p.69)

「新宿群盗伝」なんかでも気になっていたのは浮浪者ですね。(p.69)

これからも新宿を撮り続けるというのは大変面白いことじゃないかと。(p.70)

ただ新宿なんかでもそうなんだけど、弱い者同志いじめっこしたりはするんだけど、助け合いもするね。(中略)僕は新宿の人間に感じるのもそういう事なんですね。温もりがあるという。助け合えるという。いじめもするけれどね。新宿でそういうこと、鍛えられているから、インドへ行った時に、あっそうかと確認できたということです。(p.70)

ここまでが渡辺克己さんのインタビュー。
後半には渡辺克己に縁のあるものたちが思い出を語っている。
ので、3に続く。

2015年7月8日水曜日

卒論日記 愛と憎しみの新宿2

・中華料理「石の家」

南口陸橋の東側、馬券売り場から三越裏の中央通に抜ける橋の下の狭苦しいトンネルをぬけてぶつかった角、にあるらしい。なんとなく分かる。
この本の中で何回か登場する。というか、いったり来たりするので何回も登場する。

しかも、ある↓
なんとなくだけど、モウレツ汚い店でもうとっくに無いだろと勝手に思っていた...

天気のいい日に「石の家」二階の窓を開け放って焼きそばや餃子をぱくつきながらビールに喉を鳴らしていると、陸橋下のトンネルから新宿駅へ帰り道を急ぐ教師や生徒たちが姿を現す。彼らに向かって私たちは一斉にコップを掲げて乾杯した。(p.25)

しかもこの店もう一軒あるらしい。
「紀伊国屋の裏口を通り抜け、TOPSと嵐山という二つの喫茶店の間の路地を入った所」
ちょいぐぐって探してみたけど上の一軒しか出てきません。

・天丼屋の「天栄」

「新宿駅を中央口に出て、三越裏の中央通をまっすぐに明治通りの方に行くと、凮月堂のワンブロック手前の右に」あるらしい。
こういう道順を言葉で示してるの結構好き。
ここはもう無くて、ネット上の伝説となってるらしい。

150円のイカが二本載ったこの丼で腹が埋まれば、Gパンのポケットに千円札一枚もない酔っぱらいたちはたちまち転がるようにして酒場に向かったのである。(p.28)

・喫茶店の「アカネヤ」

「伊勢丹と紀伊国屋の間にあった喫茶店」とある。
わたくしこのあたり歩き回ってるし純喫茶はめざとく見てるハズだからな〜
無いだろうな〜

・ジャズクラブ「ピットイン」

これはあります。
ここわてくしがしょっちゅ通りかかってて、夜とか窓開けっ放しで爆音流してるとこか?
って思ったけど、その一本向こうの通りだった。
作者はここで結構な時間を過したみたいですよ。
でも本書の中では「紀伊国屋書店裏のジャズクラブ」になってる。
どうやら1992年に移転したらしい。

・バー「悲の器」

バーたくさんある
「二十代の私が家族と泥のようになって働いていた路地のすぐ先にある。」らしい。

・バー「ナジャ」

なんと、ここ、あるっぽい。
しかも私がしょっちゅう通る、さっきの爆音ハウスのお向かいじゃないかいな。

文学、映画、演劇、音楽、ありとあらゆるジャンルの作家、論客、前衛、異端、切れ者、すね者、その他有償無償の方々がこの新宿という街の底で夜となく昼となく蠢いていた。(p.56)

東口から新宿通を四谷に向けて歩き伊勢丹を世に二丁目に渉。その広い御苑大通りを左に折れて、さらに二本目の路地を右に入る。すぐ二つ目の建物の一階にその店はあった(p.104)

伝説的なバー、らしい。

・飲み屋(?)「火の車」

あの草野心平の火の車ではない。らしい。良かったびっくりした。
「ここは若い脚本家や役者など映画関係社たちが集まるところだった(p.107)」
ナジャの隣。

・バー「異邦人」

高田馬場の早稲田通りの裏にあったらしい。
ちょい調べてみたら、2012年閉店。残念。

・クラシック喫茶「ウィーン」

p.82にちらっと出てくる。「凮月堂に次いでフーテンや活動家たちが集まった中央通りの」お店で、「こぎれいな三階建てのトンカツ屋」がこのあとできたらしい。
http://junkissa.jp/blog-entry-247.html
↑多分違うけどここ良いなあ

・バー「ジャックの豆の木」

「赤塚不二夫や山下洋輔の仲間たちが集まる新宿ジャズ世界の奥座敷のひとつ」らしい。p.85。
http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2013/12/17104652.html
↑ここにあるように、タモリも夜な夜な通った伝説のバーだったらしい。
ここでタモリは密室芸人としての芸を磨き、後の活動へとつながる人脈を築いた。。。
閉店したそうです。

・喫茶店「凮月堂」

三越裏の中央通にあったらしい。名曲喫茶の先駆けで、この本にもたびたび出てくるし、有名なお店らしい。今のビックロ付近にありました。
設計が増沢洵で、この本でも詳しく後述されます。
http://www.drillspin.com/person/view/ARDSAX236275

・旧四谷公会堂

80年代の終わりに取り壊された。「新宿通に面した角が湾曲した江戸川乱歩の小説に出てくるようなレトロモダンな建物(p.99)」だそうで気になって検索。
けどパッと出てこず。

・ジャズバー「バードランド」

ピットインのビル背面の角あたり。このあたりの記述詳細なので引用。

当時その土地は二つに別れ、大通りから入ってすぐのピットイン入口付近には石材を貼付けた城まがいのトルコ風呂(あえて往時の言い方に倣おう)の建物がある。その先の今は歯科クリニックがある角地の一階が美容院である。戦前の「髪結い」といわれた頃から続く同じ遊郭付随産業の一軒として、我が家と長い近所付き合いの一家だった。(p.110)

「バードランド」は、この街のジャズ狂たちにとって秘められたdeepestな場所である。(中略)それでも、ここは「店が鳴る」のである。(p.110)

髪結いのあとの記述がなんかいいかんじなのよな〜けど長いので省略〜
検索したら超似たような場所に全く同じのグラフィックデザインの会社があった。
ややこしいなあもう全くぷりぷり

・酋長とツヤさんが住むビル

とあるゲイカップルが住む「大宗寺裏にある家のある公園と目と鼻の先にあるビル」で、

鷲の形をした奇妙な建物だった。たしか8階建てだったと思う。(中略)赤瀬川原平、南伸坊、富士盛る輝信たちによる「路上観察学会」の本でも取り上げられていたはずだ。(p.114)

えー何それ気になる。気になるまんぼ。しかも作者の中学時代の同級生が住んでいた家の跡に建てられたらしい。自分でチェックしてみますね。
でもそんな建物あったかいね。
あと大宗寺裏の公園に池なんてあっただろうかいや絶対無い

・「蠍座」

「新宿アートシアター地下の」としか書いてないので調べた。
こちらも劇場だったらしい。
http://www.officej1.com/70avna_gard/Place.htm(2015.7.8)
三島由紀夫もうつってるこちらのページなんかいい。
↑これ読むと凮月堂の実態がもうちょっと詳しく分かる。

・「ラシントン・パレス」

なんのことやら。
その一階には長らく牛丼屋と餃子の王将が店を構えている。その名の通り「ラーさん」という台湾系の人が経営するホテルである。(p.116)
「都会徘徊blog」http://blog.goo.ne.jp/asabata/e/84edf8c7477cc76b604c026dd93dd4a2(2015.7.8)
ばーん!最上階はまるまる、ゲイ専用のジムだったらしい。
それもすごい。
その最上部もこの本によると、当初は回転するレストランだったらしい。
それもすごい。

「旅行ガイドに載らない町並み散歩」http://ameblo.jp/sasabari/entry-11553044742.html(2015.7.8)
今はこれ。え〜ここの下のファミマ、しょっちゅう行く。わたしのファミマ、ってかんじ。
2006年解体。

・バー「ラ・カーブ」

つまり洞窟、という意味らしい。
旧軍時代の大陸、おそらくは上海辺りで男色の味を覚えた者たちが集う秘めやかな酒場はあった。(p.145)
というところででてきました。美輪明宏がいたとかいないとか。
検索するも、何も出てこず。

・海苔屋「浜善海苔店」

写真家・浜昇は老舗海苔屋の店主でもある。
https://www.facebook.com/pages/%E6%B5%9C%E5%96%84%E6%B5%B7%E8%8B%94%E5%BA%97Hamazen/243093902482933
あったぞ〜大分四谷寄り。


・独立本屋「模索舎」

御苑の新宿門の脇にあるらしい。
かつて全共闘の活動家たちがハンドメイドしたこの小さな書店には、表通りの巨大書店ではお目にかかれない政治や文化をめぐるマイナー出版がまるで「野積み」されたようにぎっしりと詰め込まれている。(p.228)

あるね〜〜え。場所も変わらないみたい。
googlemapより
今度みてみよう。ホームページではミニコミを取り扱う、となっている。

・ギャラリー「フォトグラファーズ・ギャラリー」

「二丁目のメインストリートを靖国通りの方に下る(p.229)」とある。
この本にでてきた写真家たちが作ったギャラリーらしい。
ある。
googlemapより

・「IRA Irregular Rhythm Asylum」

さっきのギャラリーから「歩いて七分の新宿一丁目の奥まった路地裏」にある、店?
なんかよく分からないけど面白そう!ZINEとかうってるよ。

ここもわたくししょっちゅう通っているおなじみの道ですが、3階だと分からない。
しかし3階か。結構ハードル高い。
アナーキー系の古書など取り扱っているようです。

気になる記述

(中略)我が家と同じくらい古く江戸中期に信州の造り酒屋から内藤新宿に進出した老舗の一家が、バブル経済が弾け飛んだ90年代初め、誰にも告げず一夜にして街からいなくなった時だ。家作をいくつも持っていたから不動産転がしの口車に載せられ、柄にも無いバブルな泡風呂に首まで浸かっていたのである。(p.23)

ジャズ喫茶のボーイたちがいたのである。レコードだけの店、演奏だけの所、夜だけの場も含めて、最盛時には、三十軒を超えていただろう新宿では、百人以上の人間たちが働いていたと思う。学生を中心に回転も早かったから、その周囲に優に1000人を超える「ジャズ世界」の底辺層を形成していたに違いない。(p.28)

居酒屋の大チェーンなどなかった当時、あちこちに散らばったこの手の飲み屋には必ずといっていいほど癖の強いオヤジたちがいたものだ。(p.29)
著者はお金はないけどこの辺のオヤジを金主にして飲んでたらしい。すご。

メガモールとユニクロ、つまりグローバル化とネオリベラリズムの影で真っ先に消えたのが商店街の「洋品屋さん」だった。(p.43)
ちょい田舎いくとある、ああいう感じの店のことでしょか。
余丁町でも見たよ。

東京は占領された街だった。誰に?ブリキの機動隊どもに、金と力を握る立派な巨大企業の皆様にそして怒濤のように押し寄せる侵入者たちに。(中略)しかし坂本はふと気づく。この街で「自分という植民地」を抱えて生きていくしかないんじゃないか、と。(p.53)
こういう記述がめちゃくちゃある。

夕闇とともに目覚め、朝陽が昇るまでただ飲み続ける無為徒食の七〇年代。ゲイの店が広がって行くまだ途上だった。(p.55)

1960年代の新宿はネズミたちの巨大な巣窟だった。(中略)どんなに汚れきった場所だろうと、ところかまわず潜り込んでは爆発的に数を増やして行くその繁殖力に人間どもはとても太刀打ちできない。この街では人間の法がかえってネズミに似てくるのである。(p.81)

(中略)甲州が異動は御苑の盛にとけ込む庭園風のブールヴァールのようになったが、当時御苑の周りは刑務所のようなコンクリート製の高い作に被われている。その反対側は下がり末のし月旅館やしもた屋(商売を止めた目立たない家)風の家並みが続くまったくの裏通りだった。(中略)四谷や千駄ヶ谷から新宿方面へ抜けるバイパスだから車はけっこう多いのに昼間でもどんよりして、夜など男でも木が負債で通りたくない裏が異動になっている。(p.102)
これを作者は暗渠だからだといっているが、全くその通りかなと思う。

曙橋や麹町に曲があった時代には彼らにとって新宿二丁目は「奥の間」である。しかし、テレビ満が河原乞食のように蔑まれた初期の野坂昭如や五木寛之が描いた時代はもう終わっていた。口から札束を吐き出しながら、合成な方々が朝の街に去って行ったその跡のことだ。(p.112)
全くもうなんのことやらだけど、曙橋ってことはフジテレビ。

(中略)「新宿御苑」とは、一面の丘陵地なのである。その岡を巡るようにして、明治には鮫ヶ橋(四谷若葉町)、旭町(新宿四丁目)、そして内藤新宿の岡場所(新宿二丁目)という獣道にも似た貧民街の円環が生まれていたと写真家の浜昇は語ってくれた。(p.130)


(中略)社務所裏の土手から垂れ下がる枝はや藻に被われた水面は昼でも暗く、夜など幽霊でも出そうな沼地だった。戦後の少年たちもこの池で鮒やザリガニを捕って遊んだ。大宗寺公園と読んでいたと思う。(中略)だが明治の終わりに造られた地図を見ても、寺領はこの辺りや二つの寺(成覚寺と正受院)の敷地とつながり、現在の新宿通りから靖国通りまで貫いていたのである。(p.141)
大宗寺のこと。これが例の池に関する記述だけど、ここに池があったのは今の今まで知らなかった。明治の終わりの地図とは迅速側図のことかなと思ってさっそく検索。
歴史的農業環境閲覧システムより
ん〜貫いてるって感じはしないがまあこれ意外何もないものね。画像真ん中に大宗寺。
池ってのはそのもっと左手のやつのことですか?遠くない?

この「唐金」つまりブロンズ造りの地蔵様は、そばに大きな桜の木があったから夏でも日陰になればたちまち表面の熱が下がり、肌にひんやりして気持ちがいい。もちろん私も懸命にしがみついた。(中略)肩まで登って頭に手をかければ二階の軒より高い。(p.144)
もちろん大宗寺の地蔵様のことです。子供登ってたの?今じゃそんな子供いないですよもう。

遊郭が廃止されて数年の1960年代初めには、街のそこここに青線バーの女たちが振りまく残りがが漂っている。ゲイ達もまだ目立たなかった。(p.145)

1900年には内務省令として「娼姑取締規則」が施行される。これは娼姑を一人残らず名簿に登録し、より強力な警察の監視下に置く処置だった。(p.157)

現在の東南口を降りた辺りから大塚家具ショールームまでの間のどこかである。どこも狭苦しいビルの中、居酒屋、風俗営業、ラーメン屋、エロとヤクザの映画館、ショットバー、大人のオモチャ屋、競馬ノミ屋に不動産や各種営業マンたちがそれぞれ業種別に溜まる喫茶店、そしてパチンコ屋と打とうがゴッタ煮のように渦巻く一角だ。(p.180)

ところが焼け跡が片付けれた1950年代後半から、尾津組や和田組といったテキ屋集団が仕切ったマーケット(闇市)がターミナル駅に通じる表通りから完全に一掃され、真新しい建築物がいくるか町中に現れはじめる。(p.191)
この中で増沢洵の凮月堂や、前川国男の紀伊国屋書店ビル、坂倉淳三の地下広場一帯を紹介している。この人たちは皆コルビジェからの流れなので、実は新宿は「コルビジェ派」の街だと言っている。
まあ〜〜ね。確かにそうかもだけど、新宿のひとつひとつの建物に注目したことなかった。紀伊国屋書店くらいしか知らなかったわよ。

今や「個人点」を成り立たせて行くこと事態が無謀な「冒険」なのである。1964年に「新宿見ん収益」というあまりに戦後的なネーミングによって開業した駅ビルを現在経営するのはJR系列の株式会社ルミネ、ビルの名前も「マイシティ」から「ルミネエスと」に変わった。(p.217)

次の本へのヒント

五木寛之、野坂昭如が自伝的小説の中でこのあたりをかいているらしい。

『理由なき暴行 現代性犯罪絶叫篇』1969年の映画
タイトルも、その説明からしても超見るのこわいけど、でもちょっと見てみたい。
監督:若松孝二、「十九歳の若者たち三人の、まるでうだつの上がらない日常とその破壌を描いた作品」らしい。

『ずばり東京』
「闇鍋のように煮え立って行く東京の街を活写したノンフィクション」とのこと
開高健の著作。

『新宿海溝』
野坂昭如作。これもルポルタージュか?

『道草』
夏目漱石作。彼が新宿区喜久井町で生まれたことは知っていたけど、1868年に内藤新宿の名手の容姿に出されていて、しかもこの人が大宗寺の「門前名主」だったとは知らなんだ。
内藤新宿北町裏16番地。この本は漱石目線が織り交ぜられているらしい。
38節で出てくる四角い家が「伊豆橋」という鼓楼なのは間違いない、と作者は書いているんだけど根拠はなんだろう。

『VACANT LAND 1989』
浜昇がが1988年から90年にかけて東京中の空き地を撮影したもの。みたい〜〜〜。

『日計り』
迫川尚子の写真集。昼間の新宿ばかり撮って来たらしい。新宿東口地下の喫茶店「ベルク」のオーナーでもある。
ベルクといえばベルクだけの本も前図書館で見かけた。

井野朋也のどの本か分からないが
「高層ビルや歌舞伎町といった、いかにも新宿らしい風景が出て来たり、いかがわしい感じが表現されていたりしても、あの無方向感覚が体験されなければ、新宿ではない」といっているらしい。

2015年7月7日火曜日

卒論日記 愛と憎しみの新宿1

『愛と憎しみの新宿』平井玄、ちくま新書、2010年

http://d.hatena.ne.jp/asin/4480065555

を読んでいる。新宿二丁目で生まれてどっぷりそのままずっと新宿で過して来た方なので
当たり前だが新宿しか出てこない。こりゃ拾うのが大変だっち。

著者は新宿二丁目遊郭そばのクリーニング屋で生まれ、新宿高校に通いつつも
私からしたらやや不良気味にジャズクラブやバーに出入りし
(それも高校闘争とかいう事態がおきていたため授業がなかったらしい)
一つ上の代の坂本龍一らと闘争に参加し。。。

1960-70年代の新宿アングラ文化系?をめちゃくちゃ濃厚に書いてるっぽい
多分大半はもうなくなってしまっているであろうあらゆるお店が
ちょうちょう詳細に出てくる。ので楽しい。

けど独特の語り口なので置いてけぼりになってしまう感じもある。