2015年7月8日水曜日

卒論日記 愛と憎しみの新宿2

・中華料理「石の家」

南口陸橋の東側、馬券売り場から三越裏の中央通に抜ける橋の下の狭苦しいトンネルをぬけてぶつかった角、にあるらしい。なんとなく分かる。
この本の中で何回か登場する。というか、いったり来たりするので何回も登場する。

しかも、ある↓
なんとなくだけど、モウレツ汚い店でもうとっくに無いだろと勝手に思っていた...

天気のいい日に「石の家」二階の窓を開け放って焼きそばや餃子をぱくつきながらビールに喉を鳴らしていると、陸橋下のトンネルから新宿駅へ帰り道を急ぐ教師や生徒たちが姿を現す。彼らに向かって私たちは一斉にコップを掲げて乾杯した。(p.25)

しかもこの店もう一軒あるらしい。
「紀伊国屋の裏口を通り抜け、TOPSと嵐山という二つの喫茶店の間の路地を入った所」
ちょいぐぐって探してみたけど上の一軒しか出てきません。

・天丼屋の「天栄」

「新宿駅を中央口に出て、三越裏の中央通をまっすぐに明治通りの方に行くと、凮月堂のワンブロック手前の右に」あるらしい。
こういう道順を言葉で示してるの結構好き。
ここはもう無くて、ネット上の伝説となってるらしい。

150円のイカが二本載ったこの丼で腹が埋まれば、Gパンのポケットに千円札一枚もない酔っぱらいたちはたちまち転がるようにして酒場に向かったのである。(p.28)

・喫茶店の「アカネヤ」

「伊勢丹と紀伊国屋の間にあった喫茶店」とある。
わたくしこのあたり歩き回ってるし純喫茶はめざとく見てるハズだからな〜
無いだろうな〜

・ジャズクラブ「ピットイン」

これはあります。
ここわてくしがしょっちゅ通りかかってて、夜とか窓開けっ放しで爆音流してるとこか?
って思ったけど、その一本向こうの通りだった。
作者はここで結構な時間を過したみたいですよ。
でも本書の中では「紀伊国屋書店裏のジャズクラブ」になってる。
どうやら1992年に移転したらしい。

・バー「悲の器」

バーたくさんある
「二十代の私が家族と泥のようになって働いていた路地のすぐ先にある。」らしい。

・バー「ナジャ」

なんと、ここ、あるっぽい。
しかも私がしょっちゅう通る、さっきの爆音ハウスのお向かいじゃないかいな。

文学、映画、演劇、音楽、ありとあらゆるジャンルの作家、論客、前衛、異端、切れ者、すね者、その他有償無償の方々がこの新宿という街の底で夜となく昼となく蠢いていた。(p.56)

東口から新宿通を四谷に向けて歩き伊勢丹を世に二丁目に渉。その広い御苑大通りを左に折れて、さらに二本目の路地を右に入る。すぐ二つ目の建物の一階にその店はあった(p.104)

伝説的なバー、らしい。

・飲み屋(?)「火の車」

あの草野心平の火の車ではない。らしい。良かったびっくりした。
「ここは若い脚本家や役者など映画関係社たちが集まるところだった(p.107)」
ナジャの隣。

・バー「異邦人」

高田馬場の早稲田通りの裏にあったらしい。
ちょい調べてみたら、2012年閉店。残念。

・クラシック喫茶「ウィーン」

p.82にちらっと出てくる。「凮月堂に次いでフーテンや活動家たちが集まった中央通りの」お店で、「こぎれいな三階建てのトンカツ屋」がこのあとできたらしい。
http://junkissa.jp/blog-entry-247.html
↑多分違うけどここ良いなあ

・バー「ジャックの豆の木」

「赤塚不二夫や山下洋輔の仲間たちが集まる新宿ジャズ世界の奥座敷のひとつ」らしい。p.85。
http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2013/12/17104652.html
↑ここにあるように、タモリも夜な夜な通った伝説のバーだったらしい。
ここでタモリは密室芸人としての芸を磨き、後の活動へとつながる人脈を築いた。。。
閉店したそうです。

・喫茶店「凮月堂」

三越裏の中央通にあったらしい。名曲喫茶の先駆けで、この本にもたびたび出てくるし、有名なお店らしい。今のビックロ付近にありました。
設計が増沢洵で、この本でも詳しく後述されます。
http://www.drillspin.com/person/view/ARDSAX236275

・旧四谷公会堂

80年代の終わりに取り壊された。「新宿通に面した角が湾曲した江戸川乱歩の小説に出てくるようなレトロモダンな建物(p.99)」だそうで気になって検索。
けどパッと出てこず。

・ジャズバー「バードランド」

ピットインのビル背面の角あたり。このあたりの記述詳細なので引用。

当時その土地は二つに別れ、大通りから入ってすぐのピットイン入口付近には石材を貼付けた城まがいのトルコ風呂(あえて往時の言い方に倣おう)の建物がある。その先の今は歯科クリニックがある角地の一階が美容院である。戦前の「髪結い」といわれた頃から続く同じ遊郭付随産業の一軒として、我が家と長い近所付き合いの一家だった。(p.110)

「バードランド」は、この街のジャズ狂たちにとって秘められたdeepestな場所である。(中略)それでも、ここは「店が鳴る」のである。(p.110)

髪結いのあとの記述がなんかいいかんじなのよな〜けど長いので省略〜
検索したら超似たような場所に全く同じのグラフィックデザインの会社があった。
ややこしいなあもう全くぷりぷり

・酋長とツヤさんが住むビル

とあるゲイカップルが住む「大宗寺裏にある家のある公園と目と鼻の先にあるビル」で、

鷲の形をした奇妙な建物だった。たしか8階建てだったと思う。(中略)赤瀬川原平、南伸坊、富士盛る輝信たちによる「路上観察学会」の本でも取り上げられていたはずだ。(p.114)

えー何それ気になる。気になるまんぼ。しかも作者の中学時代の同級生が住んでいた家の跡に建てられたらしい。自分でチェックしてみますね。
でもそんな建物あったかいね。
あと大宗寺裏の公園に池なんてあっただろうかいや絶対無い

・「蠍座」

「新宿アートシアター地下の」としか書いてないので調べた。
こちらも劇場だったらしい。
http://www.officej1.com/70avna_gard/Place.htm(2015.7.8)
三島由紀夫もうつってるこちらのページなんかいい。
↑これ読むと凮月堂の実態がもうちょっと詳しく分かる。

・「ラシントン・パレス」

なんのことやら。
その一階には長らく牛丼屋と餃子の王将が店を構えている。その名の通り「ラーさん」という台湾系の人が経営するホテルである。(p.116)
「都会徘徊blog」http://blog.goo.ne.jp/asabata/e/84edf8c7477cc76b604c026dd93dd4a2(2015.7.8)
ばーん!最上階はまるまる、ゲイ専用のジムだったらしい。
それもすごい。
その最上部もこの本によると、当初は回転するレストランだったらしい。
それもすごい。

「旅行ガイドに載らない町並み散歩」http://ameblo.jp/sasabari/entry-11553044742.html(2015.7.8)
今はこれ。え〜ここの下のファミマ、しょっちゅう行く。わたしのファミマ、ってかんじ。
2006年解体。

・バー「ラ・カーブ」

つまり洞窟、という意味らしい。
旧軍時代の大陸、おそらくは上海辺りで男色の味を覚えた者たちが集う秘めやかな酒場はあった。(p.145)
というところででてきました。美輪明宏がいたとかいないとか。
検索するも、何も出てこず。

・海苔屋「浜善海苔店」

写真家・浜昇は老舗海苔屋の店主でもある。
https://www.facebook.com/pages/%E6%B5%9C%E5%96%84%E6%B5%B7%E8%8B%94%E5%BA%97Hamazen/243093902482933
あったぞ〜大分四谷寄り。


・独立本屋「模索舎」

御苑の新宿門の脇にあるらしい。
かつて全共闘の活動家たちがハンドメイドしたこの小さな書店には、表通りの巨大書店ではお目にかかれない政治や文化をめぐるマイナー出版がまるで「野積み」されたようにぎっしりと詰め込まれている。(p.228)

あるね〜〜え。場所も変わらないみたい。
googlemapより
今度みてみよう。ホームページではミニコミを取り扱う、となっている。

・ギャラリー「フォトグラファーズ・ギャラリー」

「二丁目のメインストリートを靖国通りの方に下る(p.229)」とある。
この本にでてきた写真家たちが作ったギャラリーらしい。
ある。
googlemapより

・「IRA Irregular Rhythm Asylum」

さっきのギャラリーから「歩いて七分の新宿一丁目の奥まった路地裏」にある、店?
なんかよく分からないけど面白そう!ZINEとかうってるよ。

ここもわたくししょっちゅう通っているおなじみの道ですが、3階だと分からない。
しかし3階か。結構ハードル高い。
アナーキー系の古書など取り扱っているようです。

気になる記述

(中略)我が家と同じくらい古く江戸中期に信州の造り酒屋から内藤新宿に進出した老舗の一家が、バブル経済が弾け飛んだ90年代初め、誰にも告げず一夜にして街からいなくなった時だ。家作をいくつも持っていたから不動産転がしの口車に載せられ、柄にも無いバブルな泡風呂に首まで浸かっていたのである。(p.23)

ジャズ喫茶のボーイたちがいたのである。レコードだけの店、演奏だけの所、夜だけの場も含めて、最盛時には、三十軒を超えていただろう新宿では、百人以上の人間たちが働いていたと思う。学生を中心に回転も早かったから、その周囲に優に1000人を超える「ジャズ世界」の底辺層を形成していたに違いない。(p.28)

居酒屋の大チェーンなどなかった当時、あちこちに散らばったこの手の飲み屋には必ずといっていいほど癖の強いオヤジたちがいたものだ。(p.29)
著者はお金はないけどこの辺のオヤジを金主にして飲んでたらしい。すご。

メガモールとユニクロ、つまりグローバル化とネオリベラリズムの影で真っ先に消えたのが商店街の「洋品屋さん」だった。(p.43)
ちょい田舎いくとある、ああいう感じの店のことでしょか。
余丁町でも見たよ。

東京は占領された街だった。誰に?ブリキの機動隊どもに、金と力を握る立派な巨大企業の皆様にそして怒濤のように押し寄せる侵入者たちに。(中略)しかし坂本はふと気づく。この街で「自分という植民地」を抱えて生きていくしかないんじゃないか、と。(p.53)
こういう記述がめちゃくちゃある。

夕闇とともに目覚め、朝陽が昇るまでただ飲み続ける無為徒食の七〇年代。ゲイの店が広がって行くまだ途上だった。(p.55)

1960年代の新宿はネズミたちの巨大な巣窟だった。(中略)どんなに汚れきった場所だろうと、ところかまわず潜り込んでは爆発的に数を増やして行くその繁殖力に人間どもはとても太刀打ちできない。この街では人間の法がかえってネズミに似てくるのである。(p.81)

(中略)甲州が異動は御苑の盛にとけ込む庭園風のブールヴァールのようになったが、当時御苑の周りは刑務所のようなコンクリート製の高い作に被われている。その反対側は下がり末のし月旅館やしもた屋(商売を止めた目立たない家)風の家並みが続くまったくの裏通りだった。(中略)四谷や千駄ヶ谷から新宿方面へ抜けるバイパスだから車はけっこう多いのに昼間でもどんよりして、夜など男でも木が負債で通りたくない裏が異動になっている。(p.102)
これを作者は暗渠だからだといっているが、全くその通りかなと思う。

曙橋や麹町に曲があった時代には彼らにとって新宿二丁目は「奥の間」である。しかし、テレビ満が河原乞食のように蔑まれた初期の野坂昭如や五木寛之が描いた時代はもう終わっていた。口から札束を吐き出しながら、合成な方々が朝の街に去って行ったその跡のことだ。(p.112)
全くもうなんのことやらだけど、曙橋ってことはフジテレビ。

(中略)「新宿御苑」とは、一面の丘陵地なのである。その岡を巡るようにして、明治には鮫ヶ橋(四谷若葉町)、旭町(新宿四丁目)、そして内藤新宿の岡場所(新宿二丁目)という獣道にも似た貧民街の円環が生まれていたと写真家の浜昇は語ってくれた。(p.130)


(中略)社務所裏の土手から垂れ下がる枝はや藻に被われた水面は昼でも暗く、夜など幽霊でも出そうな沼地だった。戦後の少年たちもこの池で鮒やザリガニを捕って遊んだ。大宗寺公園と読んでいたと思う。(中略)だが明治の終わりに造られた地図を見ても、寺領はこの辺りや二つの寺(成覚寺と正受院)の敷地とつながり、現在の新宿通りから靖国通りまで貫いていたのである。(p.141)
大宗寺のこと。これが例の池に関する記述だけど、ここに池があったのは今の今まで知らなかった。明治の終わりの地図とは迅速側図のことかなと思ってさっそく検索。
歴史的農業環境閲覧システムより
ん〜貫いてるって感じはしないがまあこれ意外何もないものね。画像真ん中に大宗寺。
池ってのはそのもっと左手のやつのことですか?遠くない?

この「唐金」つまりブロンズ造りの地蔵様は、そばに大きな桜の木があったから夏でも日陰になればたちまち表面の熱が下がり、肌にひんやりして気持ちがいい。もちろん私も懸命にしがみついた。(中略)肩まで登って頭に手をかければ二階の軒より高い。(p.144)
もちろん大宗寺の地蔵様のことです。子供登ってたの?今じゃそんな子供いないですよもう。

遊郭が廃止されて数年の1960年代初めには、街のそこここに青線バーの女たちが振りまく残りがが漂っている。ゲイ達もまだ目立たなかった。(p.145)

1900年には内務省令として「娼姑取締規則」が施行される。これは娼姑を一人残らず名簿に登録し、より強力な警察の監視下に置く処置だった。(p.157)

現在の東南口を降りた辺りから大塚家具ショールームまでの間のどこかである。どこも狭苦しいビルの中、居酒屋、風俗営業、ラーメン屋、エロとヤクザの映画館、ショットバー、大人のオモチャ屋、競馬ノミ屋に不動産や各種営業マンたちがそれぞれ業種別に溜まる喫茶店、そしてパチンコ屋と打とうがゴッタ煮のように渦巻く一角だ。(p.180)

ところが焼け跡が片付けれた1950年代後半から、尾津組や和田組といったテキ屋集団が仕切ったマーケット(闇市)がターミナル駅に通じる表通りから完全に一掃され、真新しい建築物がいくるか町中に現れはじめる。(p.191)
この中で増沢洵の凮月堂や、前川国男の紀伊国屋書店ビル、坂倉淳三の地下広場一帯を紹介している。この人たちは皆コルビジェからの流れなので、実は新宿は「コルビジェ派」の街だと言っている。
まあ〜〜ね。確かにそうかもだけど、新宿のひとつひとつの建物に注目したことなかった。紀伊国屋書店くらいしか知らなかったわよ。

今や「個人点」を成り立たせて行くこと事態が無謀な「冒険」なのである。1964年に「新宿見ん収益」というあまりに戦後的なネーミングによって開業した駅ビルを現在経営するのはJR系列の株式会社ルミネ、ビルの名前も「マイシティ」から「ルミネエスと」に変わった。(p.217)

次の本へのヒント

五木寛之、野坂昭如が自伝的小説の中でこのあたりをかいているらしい。

『理由なき暴行 現代性犯罪絶叫篇』1969年の映画
タイトルも、その説明からしても超見るのこわいけど、でもちょっと見てみたい。
監督:若松孝二、「十九歳の若者たち三人の、まるでうだつの上がらない日常とその破壌を描いた作品」らしい。

『ずばり東京』
「闇鍋のように煮え立って行く東京の街を活写したノンフィクション」とのこと
開高健の著作。

『新宿海溝』
野坂昭如作。これもルポルタージュか?

『道草』
夏目漱石作。彼が新宿区喜久井町で生まれたことは知っていたけど、1868年に内藤新宿の名手の容姿に出されていて、しかもこの人が大宗寺の「門前名主」だったとは知らなんだ。
内藤新宿北町裏16番地。この本は漱石目線が織り交ぜられているらしい。
38節で出てくる四角い家が「伊豆橋」という鼓楼なのは間違いない、と作者は書いているんだけど根拠はなんだろう。

『VACANT LAND 1989』
浜昇がが1988年から90年にかけて東京中の空き地を撮影したもの。みたい〜〜〜。

『日計り』
迫川尚子の写真集。昼間の新宿ばかり撮って来たらしい。新宿東口地下の喫茶店「ベルク」のオーナーでもある。
ベルクといえばベルクだけの本も前図書館で見かけた。

井野朋也のどの本か分からないが
「高層ビルや歌舞伎町といった、いかにも新宿らしい風景が出て来たり、いかがわしい感じが表現されていたりしても、あの無方向感覚が体験されなければ、新宿ではない」といっているらしい。

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