2015年6月26日金曜日

卒論日記 『新宿熱風どかどか団』2

椎名誠おもしろい

この語り口調、他にも似ているのがいる気がすると思い考えてみた
伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』とか、橋本千代吉の『火の車』と、か、、、、
あれ、、これだけか

まいいやとにかく新宿を抜き出しちゃう。

・ラーメン屋「山田屋」(p.74)

椎名誠が新宿で一番好きなラーメン屋。濃厚こってり味らしい。
↓やったーご健在!
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13066030/dtlmap/
二新宿五丁目なので新宿駅からは少し遠い。私がノータッチのエリア。

・「池林房」(p.92)

本の雑誌社がしょっちゅう宴会を行なったり、椎名誠が連載の打ち合わせなどを
飲みながら行なう店。
先日「どん底」で終電を逃したあと歩いていたらたまたま発見してしまった。感動。

次は絶対ここだ。
この店はさっきのところと違って、サラリーマンよりも、何をしているのかよくわからない、少々怪しげなかんじの客がめだち、妙に安心できるのだった。(p.263)

p.308では「店主の太田トクヤ」というのが出てくる。「人のいいトクヤ」。

・高田馬場駅近くの肉まん(p.106)

沢野ひとしがあるとき肉まんを
沢山買ってきてそいつを部屋の真ん中にひろげ、
「さあ食べな。あついうちに早く早く!」
と元気のいい声で言うのだった。しかしすこぶる間の悪い時で、その少し前にそこにいた数人の学生たちと「珍満」の出前をたのみ、ぼくは大盛り五目チャーシューワンタンめんを食ったばかりであった。しかもさらに学生の一人が田舎から送られて来た「ちまき」を持ってきていてそれもみんなで食べたばかりであった。
ナハハさいこう
どこにあるんだろう。ばばの肉まん。

・新宿西口の京王プラザホテル(p.120)

椎名誠がカンヅメのリベンジとして用意されたところ。34階のなかなかに大きな部屋らしい。
部屋の窓から新宿西口のネオンが見える。その中にひときわあざやかにシチズンのデジタルと系の赤数字が見える。(p.132)


・24時間営業のレストラン「樹林」(p.126)

部屋を用意した星山編集長が午前二時か三時にやってきて、そこで生ビールをのむらしい。
都会のホテルは眠らないから、そんな時間にいろんな人がにぎやかに話しているのを見るのもなかなか面白かった。(p.126)
分かる〜
↓樹林、まだあった。でも、24時間営業じゃなくなっていた。
http://www.keioplaza.co.jp/restaurant/jurin/index.html

・西新宿の「ボルツ」、激辛カレーの専門店。(p.142)

椎名誠が「Number」の連載で辛さに挑戦するために西川記者と向かった店。
ぐぐると、「思い出のカレー屋」とか「ボルツはまだあるのでしょうか」みたいな記事がちらほら。かつては新宿や池袋、渋谷などにチェーン展開していたらしいが現在は神田の一店舗のみらしい。↓
http://tabelog.com/tokyo/A1302/A130201/13011142/
辛さが30倍まで選べるが、椎名誠なこの本の中で四十倍を頼んでいる。

・四谷(p.146)

(中略)昼近くになると盆地のようになった四谷の谷をうねうねいく細道を歩いて新宿通のほうにいく。四谷というのはその名のとおりむかしここに四つの谷があったらしい。おそらくそのうねうね道はむかし田んぼか湿地帯だったところにあった、あぜ道のようなものだったのだろう。(p.146)
昼飯の話です。

・しんみち通りの「だったん」

この店も池林房と並んでめちゃくちゃ出てくる。行き過ぎ。
夜8時ころになると中年女性があらわれて客すべてに丁寧な挨拶をするのが、ちょっと戸惑うところらしい。それでも行く。
検索しても出てこなかったが、本の中でも閉店ニュースが後半に出て来た。
しんみち通りというと、上智に通っていたわいの両親も大学時代はよく行っていたと聞いた。

・KDDビル(p.212)

椎名誠が当時最先端だったCDを宣伝するための短いラジオ番組のDJをすることになり、
録音しに通っていたビル。31階すべてがFM東京。
スタジオの窓からわが町新宿がぐるりと見渡せる。(p.212)
KDDビル、ってあるけど、KDDIだよね?と思って調べたら、2000年にいろいろ合併してKDDIになったらしい。なので現在はKDDIビル。


・歌舞伎町のバー(p.230)

区役所とおりの先に一軒だけ知っているバーがあった。(中略)細長い店で妙に位置の低いカウンターとボックス席がいくつかある。客が二、三組いてカラオケが流れていた。(中略)その頃のカラオケはまだテレビの画像など流れていない。音源も八本セパレーツのカセットテープで、リクエストした曲が出てくるまで随分時間がかかった。(p.230)
ついついカラオケのとこ気になっちった。わてくしの記憶の中で一番古いカラオケは、本で選曲してリモコンで送るやつだけど、画像もないのかあ〜〜。
テロップつける画像流すこと考えたやつ天才じゃん?

その続き。
タクシーをあきらめて、新宿駅から電車で行くことにした。(中略)同じようにタクシーをあきらめた人がけっこう沢山乗っているようだった。週末の中央線の深夜の下りは完全な酔っぱらい電車と化していた。(p.233)
やっぱな〜〜〜
なんかやたらリアルに感じちゃって匂いとか想像しちゃったわよ。

・新宿西口会館「アメリカン・マーケット」(p.286)

本の雑誌24号「おこたで狂読真冬号」に広告を出している。
24号が1981年、その年の11月21日にオープンするとある。スポンサーが新宿闇市団。
なんじゃいこれ全部気になる〜。

まず新宿西口会館でこれは現在のパレットビル。西口にある。
アメリカン・マーケットだけどこれはパッと検索しても出てこなかったので謎が深まる。
新宿闇市団も全然見つけられなかった。

・新宿

まあしかしこんなふうにして、いろんな話をわあわあやっているうちに新宿の夜は確実に更けていき、まだ慣れていなくて酔いつぶれてしまったのがそこらに倒れてなんだか苦しそうに唸っているのだがみんなたいして気にもせず、さらにどんどんのんでいる。(p.290)
ほんと変わらんね〜。昔はこういうところがあるから新宿なんて!だいっきらい!
て感じだったけど、今もまあ飲んだくれは苦手ですわたくし。

・新宿の「湖南」という高級中華料理店

椎名誠がとある雑誌の人生相談コーナーの相談相手役として取材を受けた店。
ここで老酒というものを飲み二日酔いになっている。
新宿にあるのに「湘南」という店だから検索してもややこしい結果が...
と思っていたらショウナンではなくコナンだった。
検索して出て来たのはこちらだが...なんか安いっぽいし違うかな。↓
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13046679/

・新宿御苑前駅の「新宿ムービー」

16ミリ映画機材を専門に扱っている店。椎名誠がうっかりめちゃくちゃ高い、しかしその後肌身離さず持ち歩くようになるレンズを逆上買いする店。
ググるも何も出てこず。
椎名誠はこの店のために自分の仕事部屋を新宿御苑前にかまえてしまった。

・「紀伊国屋」

ご存知の。椎名誠はここでサイン会を開いた一週間後にプロレス雑誌のコーナーで男を殴ったあげく逃亡している。

・「ライオンビアガーデン」

紀伊国屋の近くにあり、サイン会の開催と引き換えに約束されていたビールたらふくを果たしたところ。
↓ここのこと?
http://r.gnavi.co.jp/g160502/

以上!『新宿熱風どかどか団』読了〜

なんか超たのしいがこんなんじゃ絶対だめだろうという一抹の不安。。
そしてでもなんかしらなんかはできるだろうといういつもの適当な危機感の無さでござい。。

2015年6月24日水曜日

卒論日記 『新宿、インド、新宿』



『新宿、インド、新宿』渡辺克己(2011年、ポット出版)
http://www.pot.co.jp/books/isbn978-4-7808-0158-3.html

という写真集を借りて来た。
新宿の飲み屋などに夜な夜な出現したり、ホームレスたちと飲んだり
していた写真家の渡辺克己さん

初めて知った。

その中に、あるバーのカウンターの写真を見て、もしや。
確認してみたら、知り合いが働いているゴールデン街のお店だった。

撮影場所も何もかいていなかったが、ランプとのれんとカウンターの雰囲気で分かった。


卒論日記 新宿熱風どかどか団①

『新宿熱風どかどか団』椎名誠(新潮社、2005年)

を借りてきたら
四コマとかも載っていて楽しい。
この絵めっちゃ見たことあるな〜〜と思ったら、本にもしょっちゅう出てくる
沢野ひとしさんの絵だそうで



そもそもこの人だれだっけかとwikiしたら作家とかエッセイストとか映画監督と出てきました。

二次会は新宿花園神社近くの、その頃時折言っていた妙に広いピアノのある地下バーに集まった。(p,19)

これはどこだろうとぱっと考えて「妙に広い」的にらんぶるっぽいなと思ったけど
らんぶるにピアノはないしバーでもないので違うでしょう。

らんぶるの妙に広い地下
こんなのもあった。

(中略)じゃあもう一軒ということで行ったのが、目黒や沢野らとよくのんでいた新宿駅東口近くのいまはなきおでん屋「五十鈴」であった。(p.34)

いまはないのか。でも他の文献にも出てきそうな雰囲気。

彼の話によるとその居酒屋の近く、新宿厚生年金会館のそばにそのSMの館があるのだという。厚生年金とSMの館というのがすごい組み合わせだ。(p.57)

確かにすごい。新宿っぽい。
ここまで話の流れ的に1980年前後のことみたいで。
(厚生年金会館の近くをgooglemapで「SM」で検索したら一軒も出てこなかった)
でも

結構あるっぽい。
まあ新宿にないものはないでしょう。



2015年6月20日土曜日

卒論日記 新宿の書籍

大学の書籍検索サイトにキーワード「新宿」をいれて
検索実行。
2041がひっかかりました。

意外と少ない。これならいける?

<雑誌>
昭和46年7月号の文芸誌『海』「特集・新宿小説」
2005年6月 東京人・特集「1968―72新宿が熱かった頃」

<小説・ノンフィクション>
佐々木譲の「新宿のありふれた夜」
久保博司の「新宿歌舞伎町交番」
桑原穣太郎の「新宿純愛物語」
トウキョウ・バビロン・・・馳 星周
イン ザ・ミソスープ・・・・村上龍
歌舞伎町のこころちゃん・・・権 徹

<映画>
新宿泥棒日記(1969年制作)
新宿馬鹿物語(1977年松竹)
我に撃つ用意あり(1990年制作)
眠らない街・新宿鮫(1993年制作)
エンドレスワルツ(1995年制作)

5分ネットサーフィンしてさらっとこんくらい(本当はもっとあった)

問題点①
「新宿」だけだと新宿を舞台にしている小説などのほとんどが抜け落ちちゃう。
でも「ネットでピックアップできるかぎりの新宿が舞台の小説」って微妙?

気になる点①
歌舞伎町のヤクザとかハードボイルドとかアウトローとか
そういう系ばっかでてくる


ふんふんと先生の話をきいていたけど、このフィルターの掛け方
はどうなんだろう、どうなんでしょう、か〜

2015年6月18日木曜日

卒論日記 大東京案内2

私の祖母は戦争のあと職業学校に通ってタイピストになり
働いていた会社で祖父と出会い結婚したそうな
もしかしてあの
ー恋の丸ビルあの窓あたり 泣いて文かく人もある
というタイピストの恋愛物語があったのでしょうか
そんなお話ものっています

さて新宿について。

汽車は遠く信州、甲州からの客を運び、山手線、小田原急行線が、それぞれの沿線住民を運び込む。これ等が四つのプラットホームへ集まり、そこから潮の如く階段をなだれ下るこれが即ち新宿駅である。(p.221)

今と全く変わらない新宿駅の本質的な姿が伺えますなー
潮のごとく階段をなだれ下るなんて、新宿駅のエブリデイです
まだ続く

早朝から深夜まで、ここはまことに肩摩轂撃。(中略)しかも新宿駅は、他駅の如くラッシュアワーの時刻にのみ雑沓するのではなく、未明から夜更けまで、歓談なしの群衆の洪水なのである。この洪水を流す地下道はこれまさに日本一の地下道で、都下に日本一は数多くあるが、これほど素晴らしい日本一は他にはあるまい。(中略)で、新宿の群衆は浅草の停滞、上野の遊楽、銀座の漫歩と異なり、すべて流動する人間の集りだ。忙しそうな顔をした急速テンポの大衆だ。(p.221-2)

いやほんと、ほんとにこれです。
「忙しそうな顔をした急速テンポの大衆だ」これは少し前までわたくしも思っていました。
でもこれだけじゃないのが新宿、っていうのを最近気づいたのですよ。
それはまたのちのち出てくるのでしょう。



カフェーって、なんか今の感覚とは違うものでしたその昔。

それだのに人々は、カフェーからカフェーへ、バーからバーへ、女給から女給へ移り移り行く浮気な心を持っている。何故だか理由は分からぬが、人々には四十カフェーが必要なのである。(p.277)

わたくしが最近色々読んでやっとつかんだのは、
要はカフェーは今でいうキャバクラと同じということでした。
カフェーはめちゃくちゃ流行って増えて来たので、特殊なしかけや
工夫をこらしたお店がでてきたり、怪しい営業をするところがでてきたりしたみたいです。

あなたの推しはどちら?

上下とも「ほぼ日刊イトイ新聞」https://www.1101.com/edo/2003-09-29.html
(2015/6/18)


大東京案内では今和次郎オススメのカフェーをいくつか紹介しているわけですが
ここはこれこれのサービスがいいとか、ここはこうであんましだ、とか
今さんけっこうカフェーめぐってたみたいじゃないのよ。
まさか指名とか結構してたんじゃないでしょうね。いいけど。

今和次郎ご紹介のカフェーは。
尾張町のカフェ・タイガーとか。。
「江戸・東京ときどきロンドン」http://tukitodora.exblog.jp/17749616/(2015.6.18)


銀座の船のクロネコとか。。。
浅草のカフェ・オリエントとか。。。

神田よりもっと華美に、豊艶に、カフェーの目に見えて蔓延ってきたのは新宿武蔵野観の界隈一帯である。盛り場だけに、室内の照明や構造にそれぞれ工夫を凝らし、洋装した女さえところどころ店にいて、銀座などより俗っぽくて陽気である。(p.286)

...と、おっしゃってます。
こういうの読んでると新宿の新興な感じとか、なんでもやってみような雰囲気が
どんどん伝わってくるのです。
ちなみに当時の新宿の三大カフェーエリアは先の新宿武蔵野館、三越裏のT字、そして末広通の近くのところ、だったらしいです。

大東京案内では、「カフェー」とか「ダンスホール」とかカテゴリーにわけて
色々な街のその場所と紹介しています。
気になったのは「料理店」の章に新宿は一切出てこないところです。
他のセクションではほぼほぼ出て来ているのですが。

最寄りの小ぎれいなカフェーに飛び込んで友人と食事をとることはあっても、なかなか料理店には入り難いものである。(p.292)

こういう感じの料理店を紹介しているから
少し格上のこぎれいな場所は新宿にはないということなのでしょーか

上巻の最後に今和次郎の東京論

近代都市の尖端に立つ東京は、地理的関係からと、歴史的条件からと、そしてまた現在持っている特殊的な国家的社会的地位からとによって、他の都市が夫々に誇示する特徴をほとんど全部取り揃えて持っているカクテールのような都会である。(p.307)

ところが不思議なことにこの震災はただに名所や旧跡の一部を消滅させて一部を新生せしめたというだけのものではなくて、全東京の持つ性質を根本的に一辺させてしまったのであるから妙である。
つまり、古い江戸文化の遺跡が、部分的ではあれ事実上消滅したのをきっかけに、それと全く相容のちがっている近代的文明の尖端を、そのままに継承的に作り出したことにある。(中略)所謂年中行事や、縁日や夜店やについて見ても、全く画期的な変化に目を見張らざるをえないものがあり、東京名物とかうまいものやなどすらも、古木は亡びて新しいのが栄えるという以外に、市民の嗜好の本質的な変化を具体化しているのである。(p.309)

わてくしは、東京を本質的に変えてしまったのは明治維新だと思っていましたが
今和次郎は、それは大震災だといいます。
それは物理的な変化も含めると、そうなるということでしょうか。

2015年6月11日木曜日

卒論日記5 大東京案内1

今和次郎『新版 大東京案内 上』(2001年、筑摩書房)

この案内で東京を見てみますか〜(新宿を中心に)
こんな感じで始まります。

膨大へ!!膨大へ!!今日以後の東京は今日の社会趨勢の続く限り膨大へと進行するであらう。(p.40)

ふくらめ広がれ集まれ集まるな!みたいな、カオスな雰囲気が伝わってきます。
実際はどうだったんでしょう。これが多くの人の実感?

現にわれわれは、新宿に、池袋に、新繁栄地を見いだしているではないか。今のところそれらは外廓郊外の住宅地の人々への役目を果たしているに過ぎないとみられるが、即ちそれらの盛り場の通行人の分析表にみて、それがその他のに比し多くの家庭的臭味の用達しの中心地たるの観があるが、漸次にそれらは、複雑な要素を具備して、より大きい中心となり、独立的な性質をもって立つに至るのではないか。(p.42)

今さん、さすがですね。ほんと読み通りですよ。
そうそうなんか、家庭的臭味とおっしゃってますが、新宿って生活臭がすごくします。

尚、商業地域は必ずしも所謂下町のみではない、山の手方面の各盛り場を中心とする地域も夫々商業地域とされる。即ち、新宿、四谷の大通り渋谷の道玄坂、池袋停車場付近、その他随所にある。(p.54)

新宿は筆頭ですね。渋谷の発展も時を同じくして。

そういえば東京ってこのちょっと前までは悪道路とか泥海の状態とかいわれたらしく、
新宿も馬糞の新宿とかさんざんだったみたいですけど、大東京案内のころには
こうなったようです↓

何故モダン・ガールは東京に現れたかと云えば、その一つの原因は実に街路の新式化、欧米かにあると云える程にも画期的な新鮮な感触をわれわれに与へるものと化した。(p.60)


「デパート」という項目があります。デパートと聞いて思い浮かぶのは
子供のころよくいったイトーヨーカドーですが果たして。

東京を見物する者が、宮城、明治神宮とともに、主要項目のなかに三越を入れていないなどと云うことは考えられない。あそこに行けば、凡てが解る。(p.133)

...え、え〜三越ってそんなすごいの?って感じですよね。
ところでこの宮城ってやつ最初宮城県しか思い浮かばなかったのですが皇居のことです。
もちろん今がいってる三越は、銀座の三越のことです。

銀座の三越
「東京の昔の写真」http://infocage.cocolog-nifty.com/photos/tokyopictures/b_6.html(2015.6.11)

あそこに行けば、凡てが解る。近代の都会の一切がある。それに近代の都会の一切の人々が出入りしている。だから、三越に行くことは、都会の華やかなるものをすべてコンデンスして九州することが出来るわけなのである。(p.133)

そこまですごいのかあ。「デパートは生きた都会の縮図である」といわれたとかなんとか。
現在ではそこまで象徴的ではないですよね多分。デパートの都会的要素とは当時なんだったのかって〜つづく。

2015年6月8日月曜日

卒論日記3 新宿遊郭の話1

内藤新宿は

現在の伊勢丹前の追分交差点から、四谷大木戸交差点までの新宿通りにあたります。

宿場町ができると人が集まって自然と遊郭ができる、らしい。

内藤新宿では1772年に営業許可が出ました。57軒の旅籠屋に、150人の遊女。
店先の格子の向こうには遊女がたっていて選べる張り店もやっていました。
どんな顔して眺めて、どんな顔して眺められていたのでしょうね。
やらしいのやら、やらしくないのやら。やらしいか。

1873年には、貸座敷渡世規則とかゆうのができます。
娼妓に貸座敷を貸すという形で遊女屋の営業が許可されたのでした。
というわけでこの時から遊女屋は貸座敷と呼ばれ始めます。
別にどっちでもいいじゃんね。そうもいかないようです。

時は下って
1903年、新宿の街にも市電が走り出すようになります。
新宿の遊郭の一度目の転機といいますか。
市電が通る道に遊郭があるのは風紀上よくないということで
当時の地名で牛屋ヵ原、今でいうと、えーー、
伊勢丹から二丁目の終わりくらいまででしょうか?
たしか、そうです。
ごっそりここに遊女屋をうつしたのです。
ここです!この時からここは二丁目と呼ばれるようになり
二丁目といえば遊女屋、二丁目にいくということは遊女屋でちょいとね!
ということになったのです。

1922年、すぐ火事で焼けます。もうごっそりすべて...。
逃げ後れちゃったあの人とか、着の身着のまま、っていうか、あんま着てない!
みたいな事態になったのだろうか....。
全部やけちゃったけどさあ、じゃあ、新しい建物どうしようか

ということで、時代も時代、モダンな建築が二丁目に次々と建つことになります。

さて、火事から復活したにもかかわらず、次に来るは1923年の関東大震災。。

では、あり、ます、が。。。これが新宿にとって二度目の転機となります。
新宿はあまり被害をうけなかったため、
被害の大きかった向島の玉ノ井や、亀戸のあたりの客が
山の手の新宿に流れ込んで来たのです。大繁盛。

1939年、「辰村」の楼主がモダン遊郭なるものを考案します。
どうモダンだったのでしょう?
窓辺にひらひらと揺れるカーテンをつけたり...
籐のいす、籐のテーブルの応接セットをつけたり...
洋風で真新しい、まさにモダーンな遊郭を打ち出したのです。

これが当時のインテリ層に大ウケ。新宿の遊郭は大いに盛り上がります。
「蓬莱楼」なんてダンスホールまで付けちゃいました。
震災を機に西の郊外(荻窪とか)に転居して、新宿に通勤しにきていた
サラリーマンたちを主なお客さんとして繁盛します。
このころ遊女は577人にものぼりました。
やっぱ新しいものって気になるですよねえ。

1945年、終戦を迎えます。
やってくるはGHQ。当時の人々に様々なルールを追加しました。


アラモはどこ





この曲のカバーはだいたい全部みた。少ないんですもん。




2015年6月7日日曜日

卒論日記2

文章を書くのがかなり下手なので、ちょっと始めてみたのよ。

卒論は、ああ、はて、書けるでしょう。




卒論日記1

二丁目散歩と名付けて新宿をふらふらしだしたのは去年の二月のことです。
曙橋にある会社でのバイトが決まったので、定期券のある新宿三丁目から
歩いてみようと思ったのがきっかけでござい。

世界どうから出発。
明治通を御苑方面にわたって二丁目に入ります。
二丁目といえばゲイタウンのイメージが強いですが
真っ昼間の二丁目は様子が違います。

昼時は近くの会社員たちがランチを食べに繰り出してくるので
あらまあおいしそうな定食屋がたくさんあり
子供の帰宅時間のころは豆腐屋さんが豆腐を売りに来ていたりもします。
うっすら暗くなってくると、そろそろいろみが変わってきます。
全く知らない世界なので、お店の中を覗き込んだりしています。





二丁目を抜けると花園通りがあります。
たまあにお祭りもやっています。
花園神社のテリトリーは広いのか、お祭りのときは遠い遠いところまで、
みんな花園神社のちょうちんをさげています。範囲は知りません。

そしたらぐいっとさがって、


変な住宅地に突入します。
とにかく坂が多くて、皆苦労してるっぽいんです。



なんか疲れちゃった。
見るのに疲れて会社まで着いて終わり。
逆パターンもあります。