2015年6月8日月曜日

卒論日記3 新宿遊郭の話1

内藤新宿は

現在の伊勢丹前の追分交差点から、四谷大木戸交差点までの新宿通りにあたります。

宿場町ができると人が集まって自然と遊郭ができる、らしい。

内藤新宿では1772年に営業許可が出ました。57軒の旅籠屋に、150人の遊女。
店先の格子の向こうには遊女がたっていて選べる張り店もやっていました。
どんな顔して眺めて、どんな顔して眺められていたのでしょうね。
やらしいのやら、やらしくないのやら。やらしいか。

1873年には、貸座敷渡世規則とかゆうのができます。
娼妓に貸座敷を貸すという形で遊女屋の営業が許可されたのでした。
というわけでこの時から遊女屋は貸座敷と呼ばれ始めます。
別にどっちでもいいじゃんね。そうもいかないようです。

時は下って
1903年、新宿の街にも市電が走り出すようになります。
新宿の遊郭の一度目の転機といいますか。
市電が通る道に遊郭があるのは風紀上よくないということで
当時の地名で牛屋ヵ原、今でいうと、えーー、
伊勢丹から二丁目の終わりくらいまででしょうか?
たしか、そうです。
ごっそりここに遊女屋をうつしたのです。
ここです!この時からここは二丁目と呼ばれるようになり
二丁目といえば遊女屋、二丁目にいくということは遊女屋でちょいとね!
ということになったのです。

1922年、すぐ火事で焼けます。もうごっそりすべて...。
逃げ後れちゃったあの人とか、着の身着のまま、っていうか、あんま着てない!
みたいな事態になったのだろうか....。
全部やけちゃったけどさあ、じゃあ、新しい建物どうしようか

ということで、時代も時代、モダンな建築が二丁目に次々と建つことになります。

さて、火事から復活したにもかかわらず、次に来るは1923年の関東大震災。。

では、あり、ます、が。。。これが新宿にとって二度目の転機となります。
新宿はあまり被害をうけなかったため、
被害の大きかった向島の玉ノ井や、亀戸のあたりの客が
山の手の新宿に流れ込んで来たのです。大繁盛。

1939年、「辰村」の楼主がモダン遊郭なるものを考案します。
どうモダンだったのでしょう?
窓辺にひらひらと揺れるカーテンをつけたり...
籐のいす、籐のテーブルの応接セットをつけたり...
洋風で真新しい、まさにモダーンな遊郭を打ち出したのです。

これが当時のインテリ層に大ウケ。新宿の遊郭は大いに盛り上がります。
「蓬莱楼」なんてダンスホールまで付けちゃいました。
震災を機に西の郊外(荻窪とか)に転居して、新宿に通勤しにきていた
サラリーマンたちを主なお客さんとして繁盛します。
このころ遊女は577人にものぼりました。
やっぱ新しいものって気になるですよねえ。

1945年、終戦を迎えます。
やってくるはGHQ。当時の人々に様々なルールを追加しました。


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